江戸崎不動院(えどさきふどういん)は、天台宗のお寺で、嘉祥元年(848)の開山と伝えられる古いお寺で、本尊は不動明王です。
不動院といえば、徳川家康・秀忠・家光と3代の将軍に多大な影響を与えたとされる「天海(てんかい)大僧正(当時は「随風(ずいふう)」)」が第8世(1590〜1607)の住職に迎えられたことが特筆されます。そのため、徳川家ゆかりの貴重な寺宝が多く、「仁王門」も江戸城からの移築で、4代将軍家綱から下賜されたもので、関東最大とされています。
江戸時代には天台僧の学問所である「関東八檀林」の一つとして栄えたとされています。
【画像】「関東八檀林」の表記がある門柱と仁王門
仁王門内部には、北関東最大級の仁王像が安置され当時の繁栄を見ることが出来ます。
仁王門の裏手にある「長寿坂」。108歳まで生きたと言われる天海上人にあやかって名付けられたものでしょうか?階段を登りきると不動院本堂入口に繋がります。
【画像上:天海上人が描かれている掛け軸(江戸崎不動院所蔵】
天正十八年(1590年)土岐原氏が佐竹氏の江戸崎城攻めにより滅亡したのち、土岐原氏に代わって江戸崎城主となった芦名義広は、会津川稲荷堂(福島県会津市)から随風を招いて不動院を再中興させました。随風はこの年、天海と名を改めました。
天海は不動院を修復し、慶長八年(1603年)まで不動院の院務にかかわりました。不動院は天海が関東において最初に住持し、その後の活動の基盤となった寺です。
住寺中に「枕月(ちんげつ)三身義(さんじんぎ)新成願本(しんじょうがんほん)」の書写、請雨(しょうう・雨乞いの祈祷のこと)、芦名盛重夫人の安産祈祷、末門寺院の統制等がその業績として知られています。慶長七年、佐竹義宣の秋田移封にともない、江戸崎城主芦名盛重も角館に移りましたが、不動院は天海が住持していた由緒ある寺院として、徳川家康から河内郡東条庄で150石の寄進(朱印状)を受けました。