江戸崎城の謎に迫る~その1
江戸崎城と土岐原氏
嘉慶1年(1387)美濃(岐阜県)出身の武士、土岐原氏が、室町幕府の重職である関東管領上杉氏の求めにより、「信太庄惣政所(しだのしょうそうまんどころ)=直接土地に根付いて統治する職務者」としてこの地に
入り、江戸崎城を築きました。土岐系図には、土岐原景秀(ときはらかげひで)が江戸崎城を修築したと記されています。築城年は室町時代、永享11年(1439)です。
その後、景成(かげなり)-治頼(はるより)-治英(はるひで)-治綱(はるつな)と5代の居城となります。土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、江戸崎まちなか地区の原型を作りました。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の際、豊臣方に参じた佐竹義宣の実弟芦名(蘆名)義広の攻撃により江戸崎城は落城し土岐原氏は滅亡しました。
後に佐竹義宣の実弟、芦名(蘆名)義広(後に盛重に改名)が四万五千石の領主として入城しました。盛重は城下の不動院に、芦名一門の出とされる随風(のちの天海)を迎えており、後に天海は徳川家康の知遇を得て江戸幕府にて重用されることとなります。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで佐竹義宣は上杉景勝とともに西軍、石田三成方についたことから、敗戦後、慶長7年(1602)徳川家康によって佐竹氏は出羽秋田藩に減移封処分となり、蘆名氏もそれに追従して秋田・角館へ去ることになります。
その後江戸崎城は廃城となります。慶長八年(1603年)に江戸幕府町奉行青山忠成(あおやま ただなり)常陸江戸崎1万5,000石の所領を得て入封し、江戸崎藩が立藩されています。
江戸崎古城図
広島藩主浅野家に伝えられた日本各地の古城図の一葉。江戸時代前期の時点で既に廃城となっていたもの。戦国武将の為の、全国の城攻略マニュアルのようなものと思われる。同時期に現存した城の記録は「諸国当城之図」という。絵図は、方位が不正確なため、上下反転すると、現在の地図と比較しやすくなる。向かって左側の川が現在の小野川である。
(広島市立中央図書館浅野文庫蔵「諸国古城之図」)
この図からわかることは、
1.江戸崎城は周囲に堀を巡らした本城、二ノ丸、三ノ丸からなる。
2.現在の江戸崎小学校裏手の山が本城に当たり、現在の鹿島神社南側の堀跡が本城と二ノ丸の間の堀と推定される。
3.大念寺前にある現在の切通のクランクが、図中にも見える。
4.現在の四つ角(戸張町中央十字路)は、当時まだ十字路になっていない。
5.不動院は大きく描かれている。
6.観貞院とあるのは管天寺のことだが、この地に再建されたのは落城後のことであり、時代が一致しない。
現在も残る江戸崎城の名残
現在の江戸崎城趾は、土塁や空堀の一部が残存し、通称「城山」と呼ばれています。明治時代には「古城公園」とよばれ、「見晴し台」のある小山、東屋も存在しました。現在では見晴らし台のあったとされる小山(桜山)が削られ、江戸崎小学校の校庭になっています。また、江戸崎まちなか地区にもその時代を偲ばせる通りの造りが名残として確認する事ができます。
【画像右】大宿町方面から見渡した「城山」の全景。左の青い屋根は江戸崎小学校の体育館。
左は現在の本城跡。江戸崎小学校の裏手に位置する「城山」。右は「桜山」と呼ばれた見晴し台のあった場所。昭和初期に山が削られて、江戸崎小学校の運動場が作られた。
二の丸(鹿島神社付近)
左図は「古城図」に表されている、本城と二の丸付近。ほぼ現在の鹿島神社境内に位置する。
黒く太線で表されているのが「土塁」。
二の丸と推測される鹿島神社境内には、現在も土塁の跡が見られる。画像右は土塁の跡に祀られる三峰様。
三の丸(現在の西町付近)
左図は「古城図」に表されている三の丸付近。現在の西町。西からの外敵を防御する要となっていた場所である。
城内にはいるとクランク状態に道が曲がっている。西町、大念寺前。敵を迎え撃つのに適したつくりになっている。
まちなかには他にもカギ状に道をずらしてある場所が数カ所存在する。
町家(現在の江戸崎まちなか付近)
「本城」の東側に表されている「町屋」。上に「丁」と記されているのは「町」という意味である。
現在の大宿町~荒宿町~根宿町~本宿町~浜町付近。
侍屋敷(現在の戸張町付近)
「古城図」に表されている侍屋敷付近。土岐氏の重臣が住んでいた場所で、江戸崎城を防御する最大の要とされていた場所である。
左図の矢印は現在の戸張町から坂本医院の前を通り、
江戸崎中学校校庭〜不動院と続く道である。(下に記されているのは、不動院の山)
戸張中央十字路は丁字路だった
「古城図」に表されている戸張町の中央十字路付近。右に「門」が描いてある。北方向から本城への敵の侵入を左右に分散させるために「T字路」
だった。後に十字路になったために、道が若干互い違いになっている。
江戸崎城推定図と河岸跡
河岸とは、港のことであり、エンマ(江間)と呼ばれる引き込み水路があり、そこに船をつけ、荷の上げ下ろしをした場所である。江戸時代には商品の売買、集出荷を行う回漕問屋の店、蔵が集まり、そこに街をつくった。
江戸崎には、回漕問屋が用いた河岸と、寺院専用の河岸があった。現在では様相が変わり、かつての河岸だった水辺はなくなってしまったが、わずかなに残る跡から当時の様子を伺い知ることもできる。
河岸跡
※上図に表記されている河岸跡は、下から順に「幸田河岸」「浜河岸(石野河岸・鍋屋河岸)」「華蔵院河岸」「不動院河岸」
「顕声寺河岸」「管天寺河岸」となる。
なお、「不動院河岸」「顕声寺河岸」「管天寺河岸」は、図からも分かるように、各々の寺からまっすぐに伸びる道の先にあったと考えられる。
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