えどさき街並みの歴史1~江戸崎形成期
霞ヶ浦の入江の河岸の町として栄えた江戸崎まちなか地区。
平成17年の合併により「江戸崎」の名は消えてしまいましたが、稲敷市という広い地域との位置づけにより活性化が進められています。今日ある江戸崎の街並みの姿は、ほぼ3期に区分される時代に沿ってさかのぼることができます。
1つは、水運から陸運への転換、郊外の発達などによりまちなかの機能が拡散し、そこで都市の特性の価値転換が図られ、まちづくりの視点から「再興」の兆しが見られるようになった時代です。<拡散・再興期>
2つ目は、これをさかのぼると、まちなかに「賑わい」が生まれ、文化の花が開いた、江戸時代から明治時代にかけての<発展期>の時代があります。
3つ目は、さらにさかのぼると、この地に城下として「まち」が誕生し街並みの骨格がつくられた時代があります。<形成期>
これらの背景は、水のネットワークによって始まった稲敷地域の中心としての都市の興隆、そして交通機関等の変化に伴うまちの特性の変容で表すことができます。
江戸崎の歴史~江戸崎形成期
「江戸崎」という地名は、文明3年(1471)の熊野大社文書の中に史料として最初に現れます。
中世の霞ヶ浦沿岸では、津(つ)=(近世の河岸よりも、漁業や軍事的機能の性格が強い港の集落)が発達し、古渡(ふっと)には霞ヶ浦南岸の重要な役割を担う「津」が置かれ、海夫(かいふ)という海民がそこを拠点とし活躍していました。現在の江戸崎地区には「榎浦津」があったと伝えられています。
吉野、伊勢から海路を渡ってきた北畠親房に高田神社(熊野大社を分霊して創建)の神官が加勢したり、近江に本拠を置く佐々木氏が、建武の新政(1336年)の論功行賞で足利尊氏から高田郷を与えられたり、後に江戸崎城を開城した土岐原氏も海夫の力を利用し霞ヶ浦の海賊取り締まりの任務を任されたりと、このころの史実の背景には、霞ヶ浦周辺社会、さらに地域を越えて水のネットワークでつながる海夫の存在とその活躍の役割の大きさがあったと見られます。
「江戸崎」という地名の由来について
諸説ありますが、例えば「江戸」(現在の東京)の地名の由来は、「江」は川あるいは入江とすると、「戸」は入口を意味することから「江の入り口」に由来したと考える説が有力とのこと。同じ様な地形
を有する江戸崎も同じような由来により呼ばれたという説。
しかし、「江戸崎」と「江戸」とは、霞ヶ浦~利根川の水運を通じてつながっていたものの、名称の由来における関係の確証はありませんが、1590年に江戸崎城の新城主・芦名盛重から江戸崎不動院に迎え入れられた「天海上人」が、不動院の住職として在職中に徳川家康と出会い有力ブレーンとなり、後に江戸の街を興す際に江戸崎の街を基にしたと伝えられていることから「江戸」よりも「江戸崎」の名前の方が歴史が古いのかもしれません。
そしてもう一説は、霞ケ浦からの江戸崎への入り口には、昔「榎が浦(えのきがうら)」という地名の浦があり、そこへ突き出ている「崎」、つまり「榎の崎(えのさき)」がなまって「江戸崎」となった説等があります。
江戸崎城の開城
嘉慶1年(1387)、美濃(岐阜県)出身の武士で清和源氏土岐氏一族である土岐原氏【※1】が、室町
幕府の関東管領上杉氏の求めにより、江戸崎の地に入り江戸崎城を築きました。土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、江戸崎まち
なか地区の原型を作った人物です。
土岐原氏が、海夫の力を利用し、霞ヶ浦における海賊取締りの任務を任されていたことは、行方市の鳥名木文書によって明らかとなっています。これらのことなどから、琵琶湖~吉野~熊野灘、美濃~長良川~伊勢湾といった水のネットワークの存在が浮かび上がり、それは、江戸崎の最も華やかな近世の時代にもつながっていきます。【右:江戸崎城のCGによる予想図】
江戸崎まちなかの形成期
土岐原氏の江戸崎城は、豊臣秀吉の全国統一の波に乗った常陸の戦国大名佐竹氏と浅野氏の軍勢により、天正18年(1590)の「小田原の役」(小田原征伐)の年に江戸崎城は落城し、替わって佐竹義重(よししげ)の次男の芦名盛重【※2】が入ります。
芦名盛重が江戸崎にいたわずか10数年の間、江戸崎城を中心として本町、大町、新宿、田宿などの町割がつくられ、同郷で会津の僧である随風(天海・慈眼大師)【※3】を招いて不動院の住職にするなど、その功績は大きいものとなっています。
寺院は城とともに市街地の重要な拠点となりますが、随風(天海)は、その契機を開き、後に徳川家康に用いられ、江戸に寛永寺、日光に東照宮を創建することになります。天海は江戸崎の地形をも参考にし江戸の街並みの設計をされたとも言われています。
【右:江戸崎古城図(広島市立中央図書館浅野文庫蔵「諸国古城之図」)より】
【※1】土岐原氏
土岐原氏は、美濃(岐阜県)出身で、清和源氏頼光流で美濃守護として有名な土岐氏の一族である。
嘉慶1年(1387)に江戸崎へ来てから信太庄惣政所を掌握し、それを手がかりとして勢力を伸ばし、江戸崎城を本拠に、竜ヶ崎城(龍ケ崎市)、木原城(美浦村)を築き、約200年間7代にわたり県南に威を振るった。菩提寺は管天寺、家紋は、桔梗紋である。
【右:江戸崎祗園で町内各戸の軒先に飾られる提灯。土岐桔梗の紋が描かれる】
【※2】芦名盛重
天正3年(1575)、佐竹義重と伊達晴宗の娘の間に生まれる。天正15年(1587)、芦名盛隆の娘と結婚して芦名義広と名乗る。天正17年(1589)、伊達政宗との戦いで大敗し、常陸に逃れた。
その後、豊臣秀吉から常陸江戸崎藩に4万5千石を与えられる。盛重と名乗ったのはこの時期であると言われている。関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したために所領を没収され、慶長7年1602)、義重・義宣とともに秋田領に入り、名義勝と改め、角館に1万6千石を与えられ、小京都と呼ばれる今日の城下町の基礎となる町割りを行った。(ウィキペディアより引用編集)
【※3】随風(天海)にまつわる伝説
小説や漫画に登場することの多い随風(天海)は、江戸時代前期の天台宗の僧である。江戸崎城主であった芦名盛重と同郷の会津の出自とされ、天正19年(1591年)に中興開山に随風(天海)を第八世住職として迎え、諸堂を再建したとされる。
その後、十数年間江戸崎不動院の住職を務めたことがきっかけで徳川家康のブレーンとして江戸幕府の政策に深く関与し、家康の神号を金地院崇伝と争い、「東照大権現」を決めた人物である。川越の喜多院住持となり、関東天台宗を統括する身となった。不動院の住職を兼任していた。
天海に関しては謎も多く、足利将軍家の遺児や明智光秀であるという説もある。
江戸崎には随風(天海)にまつわる伝説がある。小野川高田沖で雨乞いの加持祈祷をして天女を呼ぶ奇跡を起こしたという伝説や、芦名氏の国替えの
際に勢力を伸ばそうとした他寺院から襲われた際に寺院の境内の井戸に隠れたという、江戸崎沼田の「吉祥院」の井戸の伝説などが残っている。
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