◆「江戸崎」という地名の登場と背景
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「江戸崎」という地名は、文明3年(1471)の熊野大社文書の中に史料として最初に現れます。
中世の霞ヶ浦沿岸では、津(つ)=近世の河岸よりも漁業や軍事的機能の性格が強い港の集落が発達し、
古渡(ふっと)には霞ヶ浦南岸の重要な役割を担う津が置かれ、海夫(かいふ)という海民が活躍して
いました。
吉野、伊勢から海路渡ってきた北畠親房に高田神社(熊野大社を分霊して創建)の神官が加勢したり、
近江に本拠を置く佐々木氏が建武の新政(1336年)の論功行賞で足利尊氏から高田郷を与えられたり、
このころの史実の背景には、霞ヶ浦だけでなく、地域を越えて水のネットワークでつながる海夫の存在
があったと見られます。
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| ◆「江戸崎」という地名の由来について |
諸説ありますが、例えば「江戸」(現在の東京)の地名の由来は、「江」は川あるいは入江とすると、
「戸」は入口を意味することから「江の入り口」に由来したと考える説が有力とのこと。同じ様な地形
を有する江戸崎もこれに例えられて呼ばれたという説。しかし、「江戸崎」と「江戸」とは、霞ヶ浦〜
利根川の水運を通じてつながっていたものの、名称の由来における関係の確証はありません。
そしてもう一説は、霞ケ浦からの江戸崎への入り口には、昔「榎が浦」という地名の浦があり、そこ
へ突き出ている「崎」、つまり「榎の崎(えのさき)」がなまって「江戸崎」となった説等があります。
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| ◆江戸崎城の開城 |

CGによる江戸崎城の予想図 |
嘉慶1年(1387)、美濃(岐阜県)出身の武士、土岐原氏【※1】が、室町
幕府の関東管領上杉氏の求めにより、江戸崎の地に入り、江戸崎城を築きま
した。土岐原氏は、稲敷地方一帯を約200年間にわたり統治し、江戸崎まち
なか地区の原型を作った人物です。
土岐原氏が、海夫の力を利用し、霞ヶ浦における海賊取締りの任務を任されていたことは、行方市の鳥名木文書によって明らかとなっています。
これらのことなどから、琵琶湖〜吉野〜熊野灘、美濃〜長良川〜伊勢湾とい
った水のネットワークの存在が浮かび上がり、それは、江戸崎の最も華やか
な近世の時代にもつながっていきます。( 江戸崎城の謎に迫る)
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◆江戸崎まちなかの形成期 |
土岐原氏の江戸崎城は、豊臣秀吉の全国統一の波に乗った常陸の戦国大名佐竹氏と浅野氏の軍勢によ
り天正18年(1590)に落城し、替わって佐竹氏の生まれの芦名盛重【※2】が入ります。
芦名盛重が江戸崎にいたわずか10数年の間、江戸崎城を中心として本町、大町、新宿、田宿などの町
割がつくられ、同郷で会津の僧である随風(天海・慈眼大師)【※3】を招いて不動院( 詳細ページ)の
住職にするなど、その功績は大きいものとなっています。
寺院は城とともに市街地の重要な拠点となりますが、随風(天海)は、その契機を開き、後に徳川家
康に用いられ、後に江戸に寛永寺、日光に東照宮を創建することになります。 |